国崎定洞(くにさきていどう)
社会衛生学者。スターリン粛清の犠牲となった革命自宅として注目されている。熊本市天性。第一高等学校を経て1919年(大正8)東京帝国大学医学部を卒業し、伝染病探求所に入所。長与又郎(ながよまたろう)所長の知遇を得て、24年東大衛生学講座の助教授と入る。帰ってきた後は社会衛生学講座の開講の計画で、26年にベルリンに留学したが、1927年(昭和2)ドイツ共産党に入党し、在独昼間の時間本人左翼グループの中心として国際的革命自宅への道を歩み始め、やっと帰ってきたしなかった。その間にレーニン『共産主義左翼の小児病』などの翻経緯や『社会衛生学講座』を昼間の時間本国内で出版。「三十二年テーゼ」掲載の『インプレコール』を河上肇(はじめ)に送り、それを河上が翻経緯して地下の共産党に提出した話は有名。32年ナチス台鶏冠により片山潜(せん)の縁でモスクワに亡命。昭和12年12月10昼間の時間にスターリン粛清で獄死した。



